年齢のせいでしょうか最近はお別れの会など淋しい話が多くなってきましたが・・
先日、武蔵高等学校の大坪秀二先生のお別れの会に行って参りました。土曜の午後雨が降る中、久し振りに西武池袋線の江古田駅に降り、母校の大講堂へと向かいました。江古田の駅からは、ゆっくりと歩いて武蔵へ向かう同窓OBであろうと思われる大勢の方々が話をしながら歩いて行くのに同行するような形になりました。
大坪先生は武蔵のOBであり、1937年に武蔵高等学校尋常科へ入学され、1943年理科甲類卒業。東京帝国大学理学部物理学科入学1947年大学院へ進まれ、1950年から武蔵高等学校・中学校教諭となられた。
私は武蔵の生徒であった頃、決して優秀な生徒ではなく、どちらかと言えば成績も危なっかしい生徒でありました。大坪先生は数学を教えていらして、私が高校生になった時に教頭をされていたと思います。覚えめでたい優秀な生徒ではないのですが大坪先生は生徒一人一人の名前とをきちんと認識されていたと思います。武蔵は遅刻や欠席にはとても厳しい学校で年間を通じて遅刻を3回以上すると進級会議に掛けられ、進級か留年か問われるような学校でした。当然?私はというと見事に親が呼び出され、指導を受けるような生徒でありました。
さて、お別れ会は音楽部の「G線上のアリア」で始まり、黙祷、同窓OBのお別れの言葉へと進んで行きました。大坪先生の思い出を16期の同級生の方から始まり4名の方がお話しされました。同期の景山さんは、武蔵の学生であった頃の懐かしい話、日本は戦争になり、高等学校の後半は戦況の悪化もありスキーなど楽しくいける状況にはなかったにも拘わらず、数人で雪を捜して夜行でスキーに出かけた話を、25期の建築家の内野さんは、山岳部OBでもある大坪先生と八方尾根に、寄付金を集め武蔵の山小屋「赤い小屋」を設計建設したお話をされました。我々同期の45期梶取君が現在、高等学校・中学校の校長をしていることもあり、大坪先生と武蔵の教育・カリキュラムについての話をしました。武蔵は高等学校では珍しいと思うのですが、高校に入ると第2外国語の選択があり、我々の頃はドイツ語・フランス語、現在はそれに加え中国語・韓国語の選択があり、高校3年の時に2から3週間それぞれの国の交流のある学校へ短期留学刷る制度があります。大坪先生はその海外研修制度の立ち上げにも尽力されたそうです。さて、60期の守矢さんは大学法学部の教授ということからか、とても深い洞察といろいろなエピソードを、やや難解な(私にとってはですが・・)言葉。表現で話されました。
大坪先生は入学式・卒業式などに長い式辞を話され、生徒達を決して子供扱いすることなく対等な立場で教育と個性、自ら考える力を大切にする・・(というような事であったと思うのですが・・)ということを創生期の旧制武蔵の校長、山本良吉氏のスパルタ教育に批判を加えながら展開され、一貫してその教育理念を貫かれたと話された。また。おもしろいエピソードとしては坂口安吾の「不連続殺人事件」・・これは読者への懸賞金が掛けられた推理小説で、その犯人を当て、懸賞金を得た人物が実は大坪先生達数人の仲間で、当てたとされる人物は名前を借りただけであった。というようなエピソードも披露された。大坪先生の緻密な論理的な思考を裏付ける、先生らしいエピソードでもあった。
リベラルアーツの大切さを教わった武蔵での生徒時代、大坪先生のお話や其の行動から自然と我々に染みついたものであり、武蔵時代は劣等生でどうなることかとハラハラどきどきの学生時代ではありましたが、其の6年間に身につけることが出来た大切なものであることが今更ながら実感されました。
感謝の気持ちを込めてご冥福を祈りたいと思います。
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